「研究者」という言葉の定義

言葉の定義は難しい。

同じ言葉でも、人によってそれぞれ理解が異なるからだ。

大学在籍時、同僚たちが使う「研究」や「研究者」という言葉に猛烈な違和感を覚えていた。彼らは自分自身を「研究者」と定義しているようだった。

大学に残って少しお勉強しただけで、しかも外国人(最近は日本人)有名研究者の劣化したモノマネばかりして人の褌で相撲を取るだけの人間が、大学で職を得たというだけで「研究者」と名乗る神経が全く理解できなかった。

しかも、サラリーマンと同じように大学にこき使われて、会議や雑用に明け暮れ、「研究者」のコミュニティにも入らず、海外から請われて学術会議や論集・書籍の執筆に参加することもない「研究者」という存在がありうるのだろうか?

思いつきの垂れ流しや資料を並べかえただけの、ほとんど内容のない論文や著作を日本語で発表し続けている人たちが「研究者」と名乗って良いのだろうか?

とはいえ、当時は私自身「研究者」という言葉を誇大妄想的かつナイーブに理解しすぎているだけなのだろう、と思っていた。

日本を捨てて海外の研究所に移った後、世界中には凄い「研究者」が山のように存在していることを後に知ることにはなるのだが、自分の「研究者」という言葉に対する理解が、日本における一般の理解とは大きく乖離していると今でも感じている。

ここ経由で知ったのだが、茂木健一郎は自分のことをいまだに「研究者」と定義しているらしい。茂木氏自身の意思で、何の影響力もない学術論文をシコシコ発表することに見切りをつけて、社会的影響力の大きいタレント活動にあえて勤しんでいるんだと思っていた。(というか、誰でもそう思いません?)

そうじゃなかったんだ。。。

本当に人それぞれだよな。

【追記】
この「研究者」に対する考え方の違いについて色々考えたことがきっかけで、日本の大学に残る理由を失ってしまったことを思い出した。

今でも全く考えは変わっていないが、当時も「世界の最先端と同レベルであるテーマについて研究し、学術界に対して何かしら貢献ができるかどうか」が重要であり、それを遂行することが「研究者」のあるべき姿だと考えていたような気がする。

周りの日本人からはその原理主義的態度を嘲笑されていたような気もするが、全く意に介さなかったのは我ながら微笑ましいというかなんというか。

これはあくまでも私見だけど、人文学系研究者としてある分野で世界のトップレベルになることができたなら、派生的に周辺分野においてもかなり高度なレベルで研究を遂行することができる、と思う。というのも、そのレベルへ達するために必要なプロセスで得た研究者としての様々な能力や世界観に基づけば、どの分野に関しても新しい視点での研究が可能になるからだ。

だが、日本の大学の大半はもはや(というか昔から)そんな求道者を求めてはいない。

少なくとも私が所属していた分野で、近年大学に採用されている人間は【語学教員屋さん】か【語学力を必要としない新しい時代の文化事象を扱っているジャーナリストもどき】ばかりである。

なので、大学教員として院生や若い研究者に何を求めるべきかは本当に悩ましい問題だ。

私自身が殉教的な態度で研究者をやっているのは勝手だが、これから日本の大学で職を得ようとしている彼らに同じことを求めるのは実際酷だろう。そんな殉教の道に若い人を引きづり込んでも、彼らにとっては何のメリットもないからだ。

彼らが「研究」と称しているものは、私には趣味かオママゴトにしか思えないが、しかし彼らの多くはそれでも研究に人生を賭けていると思っているのである。

「ならば良いではないか。日本の大学内部でドンキホーテになって暴れまわるよりも、大人しく身を引いて海外で学究生活に沈潜したり、大学の外部に出てガチンコの世界で生きた方が面白いだろう」という結論に当時至ったことを思い出した。

ま、確かに海外での研究生活は苦しい綱渡りの連続だったけど面白かったし、今も面白いけどね。