日本人で本物の人文学系学者とは?:Nordica mediaevalis より

越境する西洋中世

土橋茂樹編
特集:越境する西洋中世(『中央評論』266号)
中央大学 2009年 12-61頁

前と脇から見た西洋中世(高橋英海)(中略)

しかし、もっとも印象的な文章は、高橋のもの。

「大学に進学して西洋古典学をやっているつもりになっていた頃は、歴史はコンスタンティヌス大帝で終わるものと考えていた。近現代などというものは新聞を読んでいればわかることであって、学問の対象にするようなものではない、中世や近世はもう少しましだが、そんなものは古典期のラテン語ギリシア語がきちんと読めない連中がやるものだ、と」(19頁)。

かっこよすぎる。しかしここで切ると物議をかもしそうなので、その後に続く文章も掲載しよう。

「(職場の同僚のお叱りを受けないように断っておくと、これはあくまでも四半世紀近く前の話である。いまでは近現代の研究にさえも多少の価値は認めている)」。

「多少の価値」!古典学者はこうでなくてはならない。しかし続く文章では、卒論ではキリスト教時代のラテン文学、修論ではプルデンティウス(348-413)の詩、博論では13世紀シリア語のバルヘブラエウスを扱ったと述べる。「西洋中世」ではないが、「多少の価値」を認めるにやぶさかではない中世であることには変わりない。レトリカルな文章は最後まで読み込まねば、書き手の意図を誤読する。

この高橋英海、中世フランス文献学の松村剛、中世ラビ文献学の勝又直也、ルネサンス思想の平井浩は、日本で言う通常の学者とは別次元にいる。彼らの基本的な仕事は欧語(全員学位は海外で取得)なので、専門を越えて彼らの名前が知られることは少ない。しかし、彼らのようなやり方が本当の学問というものである。大学や文科省は、こういう人たちをもっと大事にすべき。彼らがマスコミ受けするサントリー学芸賞をとることはないだろうが、日本学士院賞日本学術振興会賞には相応しい。賞の価値は受賞者の質によって維持されるという当たり前の事実を踏まえるならば、彼らが受賞することは賞の質的維持のためにも不可欠である。いいものをいいと判断できない人間は、そもそも学者としての適性がない。

その他にも、思いつくままに「本物の人文学系学者」を列挙しておきます。

Tsvi Sadan (Tsuguya Sasaki) http://www.ts-cyberia.net/
Sachiko Kusukawa http://www.hist.cam.ac.uk/academic_staff/further_details/kusukawa.html
Takashi Shogimen http://www.otago.ac.nz/historyarthistory/staff/takashi_s.html