症例1

L'intelligence, c'est de se tirer d'affaire - Sigmund Freud

典型的な大学教員による典型的な意見がコメント欄に書き込まれたので、少し詳しく紹介しましょう。

大学教員の給料が一般にそんなに良いとは思えませんが、然るべき競争率をくぐって得たポストでしょうから、それなりの待遇でないとやってる方も割が合わないのだと思います。
あなたの現在のスタンスは、局アナの就職試験に落ちた人が、「あの人より私の方が実力があるのに」とか「私が落ちてあんな人が通るなんて、テレビ局なんてろくな業界じゃない」とか言っているのと変わらないと思いますよ。

まず、「オレ様は十分に評価されていない。オレ様の能力に比して給料は高くない。」という有難いご意見からコメントをしていきましょう。

然るべき競争率をくぐって得たポストでしょうから、それなりの待遇でないとやってる方も割が合わないのだと思います。

この意見が大学教員という生き物のダメさ加減を如実に表していると思います。

競争率の高い職業(本当に大学教員になるのって競争率が高いんですか???)が高収入であるべきだという短絡的な思考を振りかざされると、残念ながら対話をする気がなくなってしまいます。対話の前に、世の中はそれほど単純ではないことをお勉強して頂かねばなりません。競争率の高い試験、例えば司法試験、公認会計士&税理士試験の合格が、直接的に高給を意味するわけではないのと同じことです。

また、「然るべき競争率をくぐって得たポストでしょうから、それなりの待遇でないとやってる方も割が合わない」という意見陳述の目的が、大学教員側の事情を他人に押しつけようとしているだけであることに、なぜ気付かないのでしょうか?

大学教員の方々にはなかなかご理解頂けないのですが、学生や学生の親御さんにとっては、大学教員が競争率の高いポストを得るために苦労したことなど全くどうでも良いことです。そんなことに対して、税金や授業料を払っているわけではないのです。

大学教員が提供する教育内容(と就職に必要な大学のブランド)などに対してお金を払っていると思うのですが、違いますでしょうか?

そして、その内容に少なからずの人たちが失望し、文科省までもが人文社会学をなおざりにし始めているのが現状ではないでしょうか?

ポストを得るために苦労していることは分かりますが、その苦労が日本の将来を担う学生のためになされていないことが問題だと指摘されているのです。

古今東西、お客様の方を向かずに殿様商売していれば、お客様に見捨てられるのは当然であるかと思います。

もちろん教育は商売ではないという議論があるのは承知しておりますが、自分の都合を学生に押しつけている今の状況は非常に問題があると思います。そして、それを問題とも思わない大学教員の意識の在り方にも怒りを覚えます。

あなたの現在のスタンスは、局アナの就職試験に落ちた人が、「あの人より私の方が実力があるのに」とか「私が落ちてあんな人が通るなんて、テレビ局なんてろくな業界じゃない」とか言っているのと変わらないと思いますよ。

コメント欄では反論する気はない、と書きましたが少しだけコメントしておきたいと思います。

この発言の背後には、「大学からドロップアウトして大学を批判する人間は、日本の大学に残りたかったはずだ」という予断があるかと思います。

これは、大きな間違いだと思います。

今の日本の大学に職を得て、何か良いことがあるのでしょうか???私は全くその良さを見出せなかったのですが・・・ぜひ教えて頂きたいものです。

テレビ局に入りたい就活生と違い、私は「大学院に来てしまったものの、日本の大学に残らなくて済むにはどうしたらよいか」ということを考えていた人間ですので同一視されても困ります。

実際、日本の大学に残る気はないと言ったときには、家族から泣いて反対されましたし、周囲の大学関係者からは強烈なパッシングをされました。

有難いことに、色々と誘ってくれる教授の方々も何人かいたので、確かに大学に残った方が精神的にも楽だったでしょう。

しかし、周囲から孤立しても、今までの人脈を反故にしても大学から抜け出たかったわけです。

大学に残りたくなかった理由は山のようにありますが、大学教員になるような人間と同僚としてあと何十年も一緒に働きたくなかったというのも大きな理由の一つでした。

奇しくも、コメントを残した方が例に挙げておられますテレビ局の現状が、現在の大学の姿と重なって見える人間は私だけではないと思うのですが。

蛇足ですが、私のスタンスは以下の通りです。

(1)一人の納税者として、また将来自分の子供を日本の大学へ行かせるかも知れない人間として、現在の大学の改善すべき点を指摘しています。

(2)人文学が好きで、長年欧州にて人文学に携わり、日本の人文学を健全な組織にする一助になろうと考えていた人間として、日本の学術界の現状に怒りを覚え、個人的な経験から改善すべき点を指摘しています。