公然わいせつ断固反対!

ある業界(大学外)の有名人のtweetをみていたら、現代思想系や「ゼロ年代系の論文を読むと、他人のオナニーを見ているようななんともいえない気分になってしまうのはなぜだろう。」という記述あり。

まっとうな感覚をもった大人は、こういう感想しかもたないよなあ・・・

「センズリし続けている若者に誰も注意できず、若者をセンズリ地獄から救い出すシステムすら作れないどころか、責任をもつべき立場の人間までもがオナニー大会を続けていたら業界はいずれ社会から見捨てられまっせ、というかすでに誰にも相手されてませんよ」と長年業界の重鎮とやらに主張し続けてきたが、恫喝・無視・排除以外何も反応がなかったような記憶が。。。

しかし、ゼロ年代も順調に大学で職を得ているようだし、まだまだセンズリ大会は継続するのだろう。大体が、センズリばっかりぶっこいている奴らのために税金を投入したり、ましてや子供の教育を任せたい親がいるか?って話だと思うんだけど。。。

就職活動期間を除けば、3年弱で学生は教員どものセンズリ・ショーからおさらばできるのだから、3回生から就職活動+新卒絶対主義という現在の状況はとても良いのかもしれないね。(皮肉)

まあ、それはそうと、人文社会学系大学教員がセンズリを止めない、というか止める気もない理由は10年付き合って嫌というほど分かった。 

高等教育という抜本的改革が難しい分野であるがゆえに生き長らえてしまった既得権益を守るためのシステム、何の選考基準も公開されず密室で決定される意味不明な人事、一旦大学でポストを得れば後はやりたい放題で、よほどのことがなければクビにならない過保護な雇用環境、など様々な外的原因もあるだろう。こうしたパブリックな外的要因だけに議論を集中させるべきだという(丸山何某に感化された)意見も耳にタコができるくらい聞かされた。

しかし、私はそれ以上に人文社会学系大学教員になるような人間が持つ共通の特徴、つまり各個人の内的な諸要因によるところが非常に大きいと思う。以下に、それらを挙げる。

(1)肥大化した自我
巷でもよく言われていることだが、人文社会学系大学教員は大学という閉じたミクロの社会にしか生活実感を持てないため、総じて視野が異常に狭い。

個人的な意見で恐縮だが、視野が狭く他人の価値観に関して無知だからといって人文社会学系大学教員が既存のシステムに安住してオナニーし続けることは、残念ながらもはや許されてはならないと思う。これは、現在の経済状況ゆえにお金を生み出さない人文社会学が存続することは許されないという意味だけではない。そもそも人文社会学が現実社会に対して提示する視点・論点のほとんどが、全く有効ではないと思うからだ。

それ以上に問題なのは、誰に対しても(学生や院生にすら)責任をとる義務がないため、責任に対する結果を何も求められないことだ。他人に対して責任を果たす対価としてお給金をもらうという当たり前の感覚を持てないのだ。そのため、理想と現実をすり合わせながら、人間として成長する機会を完全に逸することになる。

その結果、肥大化した自我の暴走を止めるストッパーを自身のうちに形成する力が働かない。人文社会学系大学教員の多くが、自分のことばかり話し、非常に幼い印象を与えるのはそのためだ。

もちろん、こうした人間の存在は別に大学に限ったことではない。組織の中で肥大化した自我を持て余した人間は、組織の外へ飛び出していく。しかし、大学教員は辞めない。いや、辞めることができない。なぜなら、彼らは大学の外で食っていくことなどできないと知悉しているからだ。なので、組織の中でずっと自我を肥大化させていく。

肥大化した自我が向かう先は、一方では現代思想に代表されるように読者を顧みないオナニー大会である。そして他方ではセクハラやパワハラという示威行動である。とくに後者は、彼らの生活の糧のために親御さんが税金や学費を払っている学生に直接被害が及ぶ。

(2)知識や情報獲得に対する安易な目的設定

人文社会学系大学教員のさらなる問題点は、人文社会学系の研究が何の役にも立たないことを前提に議論が進まないことだ。

何かの役に立つという議論をすればするほど、人文社会学系学問の本質から離れ、その無意味さが強調されることになる。例えば、文学部教員の既得権益になっている語学にその傾向が顕著だ。人文系の教員は、「大学で学ぶ語学が社会に出ても役に立つ」と主張する。しかし、例えば英語は大学だけで学ぶわけではないわけだし、大学教員の語学レベルがとてつもなく低いことを現学生も卒業生も昔からみんな知っている事実なのだ。(これに関しては、別稿にて詳細に論じたい。)

もちろんこの議論は人文社会学系学問のみに当てはまる話ではないかもしれない。なぜなら、知識や情報それ自体には価値がないからだ。知識や情報は、知る喜びを堪能し、好奇心を満たすためだけのものだ。アカデミズムでは知識や情報の獲得が自己目的化しており、それが別に役立つようには設計されていない。

西洋文化の吸収だったり、文化素養や教養の形成という標語を利用して時代の要請に応えてきたが、もうそうした標語の賞味期限も切れてしまっている。

別にあってもなくても良いものに人々は関心を向けない。そのため、人文・社会学の存在意義などこれまで全く問題にならなかった。教員たちがどれだけくだらない授業や研究をしていようが、卒業後全く関係のない世界で生きていく学生たちにはどうでも良かったのだ。しかし、その人文社会学系学問の無意味さを人口に膾炙させるには、皮肉なことだが、彼らがメディアに出て注目を集めるだけで十分だった。特に最近では、サブカルなど若者の趣味世界を”主に”研究対象とするポスドモダン系の屁理屈屋やカルスタやらを筆頭に、評論家と同じような仕事をすることで、あまりにも安易に世間に対して媚び、そして自分たちの存在価値を矮小化し続けてきたために、税金を投入すべき価値を完全に失ってしまっている。

私の経験からの判断にすぎないが、欧州では確かにいまだに大学に対する(ある意味無根拠な)信頼性が失われていないため、多額の税金や寄付金を使って大学を支えることもやぶさかではないように見える。しかし、ベルルスコーニが首相を務める国では特に顕著だが、国によっては人文社会学系学問への差別を露骨に強めている国もあるのだ。ましてや今の経済状況の日本ではもう限界だと思う。

(3)研究なんてこの程度で良いんだろうという見くびり

そうはいっても、私が大学にいた頃は、日本の人文社会学が世界的に見ても純粋に学問としてレベルが高ければ良いと(手前味噌に)思っていた。

しかし、残念ながらまったく自慢できるレベルではないのだ。

日本の人文社会学系大学教員は、目標設定のハードルが恐ろしく低い。これはもう本当にびっくりするぐらい低い。

もちろん人生は有限である。なので、あきらめが肝心ではある。

しかし、研究というのはこれまで為されてきた研究を基礎にして、さらに研究者各個人が積み上げていく営為である。より具体的にいえば、先行研究を収集・消化・精査した後、先行研究が解決していない問題を明らかにし、新しい発見などの学術的成果を生み出していく営為である。

そのためには、先行研究に取り組むだけでは十分ではない。

先行研究に取り組むことで生まれた自分の先入観や思い込みをも破壊しつつ、自身のキャパシティーを無理にでも広げていく作業が求められる。

残念ながら、人文社会学業界では全く別の、いや方向性が真逆の活動が「研究」として行われている。

つまり、(多くは外国の)先行研究をただ狩猟するだけで、それによって生まれた先入観や思い込みを保持したまま瑣末な知識や情報で頭を一杯にしていく連中や、先行研究すら読む気もない思いつきを垂れ流す怠惰な連中が大量に大学に巣食っているのが現状なのだ。

これまでの人文社会学の歴史は、こうしたこざかしい人間たちが大学でポストを得るために自らを最適化してきた歴史とも言えるかもしれない。

彼らに、研究に対する真摯さを求めるほうが間違っているのだ。

学生に対しても、学術界に対しても責任を自律的に設定しない人文社会学系大学教員は、これからもオナニー三昧の生活を続けるのだろう。

「馬鹿言え、俺たちは文科省や大学のせいでどれだけ雑用に時間を費やしていると思っているのだ。研究などに時間を割ける状態ではないのだ」と怒り狂う他律的な大学教員がいるかもしれない。

しかし、それなら自分で自身の環境を変えればよいだけの話なのだ。文科省の改革攻勢で大学が研究の場ではなくなっているくらいのことは、長年外国で暮らしていた私ですら知っていたぞ。あなた方が知らないわけないじゃないでしょうに。自分の就職先についてリサーチすらしてないの?

あなた方は雑用ばかりさせられている自分が正当に評価されていないと考えているのかもしれないが、我々納税者からすれば雑用要員にしては給料を多くもらいすぎているとしか思えないんですけど。

自律的に労働をしつつ、そして他人に対して責任を負うことで金銭を得るという当たり前の経済活動を理解すべきなのだ。

単に組織を変革するだけではなく、組織を構成する人間自身が変わらなければ何も始まらない。