ロケーションバリュー CTO ブログより

技術の話はとても面白いです。「こんなことが出来たらいい」「あんな風にしたらすごいことになる」というビジョンを共有しあい、時にはそれを実装にまでつなげてしまうプロセスはエキサイティングです。

ですが、その先に何があるのかが、たまに見えなくなってしまうのです。

例えば、「ここをこうしてこういう風になったら面白いよね!」という技術アイデアがあったとします。確かに面白いと私も思いました。では、それは誰がどうやって使って、どういう風に幸せになるんだろう?という問いが、私の頭の中にはすぐに浮かんでしまうのです。

私が研究職を志して、道半ばで異なる世界を選んだのも、それが大きな理由となっていました(以前も似たようなテーマでエントリしていましたね)。自分が今やっていることは確かに面白い。でも、この面白いことの積み重ねは、誰を幸せにするんだろう?という疑問に、研究職では答えられない気がしたのです。

以前どこかのブログで、「技術者はそんなことを気にしてはいけない、面白いと思うことを追求することだけが世界を変える」というような趣旨の文章を拝見したことがあります。確かに、それも一理あると思います。面白いと思うからこそ、昼夜を忘れて没頭できる。そして、その果てにある一瞬の閃きがたまらないエクスタシーの瞬間をもたらしてくれ、技術を進歩させる。素晴らしい体験です。

その結果、原子爆弾が生まれたというのは言いすぎでしょうか。

誤解なきように言っておきますが、もちろんアインシュタイン原子爆弾を意図して作ったなどというつもりは毛頭ありません。ただ、アインシュタインが作り出した理論や技術が、彼の意図しない方に使われ、彼の意図しない結果をもたらしてしまったという事実のみを指摘したいのです。

私は別に人類が知的好奇心の追求を止めるべきとは思っていませんし、むしろ逆に科学の進歩に心ときめかせ、さらにさらに人類が様々なものを作り出すのを楽しみにしています。

私が言いたいのは、技術者であろうと科学者であろうと、自分自身が為したことの、人類に対する責任があるということです。人類という言葉が大きすぎれば、社会と言い換えてもいいかもしれません。楽しいことを行うのも、面白いことを追求するのも、とても素晴らしいことです。ですが、「後は知らん勝手にしてくれ」というのは、あまりにも傲慢ではないでしょうか。

だからこそ、私は技術や科学に対して、世界をどうしたいかというビジョンがなければならないと思うのです。そして、その方向に世界を導こうとする力と意志も。別にそれが技術者や科学者である必要はないと思いますが、少なくともそれを生み出した者として、信頼できる誰かに託すなり、相談するなり、秘匿するなり、何らかのマネージをして欲しいと思うのです。

ネガティブな話ばかりになってしまいましたが、ポジティブな面でも同じです。未踏ソフトウェアで素晴らしい、面白い技術が生まれたとしても、それが具体的に社会にとってどんな意義があるのかを問わなければ、本当に意味のある投資にはならないと思います。

技術者であれ科学者であれ、私は特権階級であってはならないと思います。そうではない人と同じように社会への責任を負い、同じように人類への責任を負っています。経営も同じですが、社会に大きなインパクトを与える可能性がある人ほど、それを日々意識しなければならないのではないでしょうか。