本を買わなくなった理由

ここ10年くらい人文社会学に関する日本語の本を全く買わなくなった。

とはいえ、日本人ジャーナリストが書いた日本に関する本は結構読んでいたりする。

結構面白い本を日本語で読めるし。

しかし、ジャーナリストのような仕事をしている1970年前後以降に生まれた大学教員の本だけは一度も買いたいと思ったことがない。

立ち読みしているだけで怒りの感情を抑えられなくなるからだ。

彼らは、いまだに西洋の理論をくっつけて身近な事象に関して能書きを垂れ続けている。

IT、経済、文学、音楽、映画、社会、マンガ、オタク、若者、テーマはなんでも良いみたいだ。

もう勘弁してほしい。

そもそも彼らは語学ができない。

然るに、理論が生まれてきた背景や理論の含意(教員同士の政治的な意図や前世代へのアンチテーゼが多い)を何も理解していないから、理論が持つ意義を考えることすらできないし、ましてや批判など全くもってできない。

キットラーのメディア論なんてその典型。

彼の初期の仕事は明らかに前世代へのアンチテーゼが色濃く反映されている。

教授資格論文が問題を引き起こしたのもそのためとされている。

しかし、過剰なまでに晦渋な文章やピンクフロイドへの度重なる言及、Linux環境でのプログミングの授業などに見られる前世代へのアンチな感情は、明らかに学術的バイアスだ。

日本ではそれをアンチ権力でカッコイイなどとカワイラシイことを仰るナイーブな方々が、キットラー紹介の労を取っておられてなかなか香しい。

そんなピュアなファン心を知ってか知らずか、本人はさっさとメディア論を捨ててギリシャへ逃亡 ;-)

彼は、理論家として評価されるべきではない。それは、ラカンの三界を三つのメディアとアナロジーで結び付けるという今どき高校生でも恥ずかしくてしないことをしていることからも明かだ。

それよりも、(校訂版を使わなかったり資料の扱いがとんでもなくいい加減だが)歴史家として評価されるべきだと思う。

しかし、日本のお坊ちゃんたちは、彼を理論家と認識したほうが楽で都合がよいみたい。

彼らはメンドクサイ一次資料精査なんてやらないし、資料を買うべき金で子供のミルク代や家のローンとか払ってるから一次資料を所有すらしていない。

なので、彼らは理論を「使う」ということの正否は不問に付さざるをえない。

本当にそんな理論を使う必要があるの?

というか、そもそもその理論は正しいの?

解釈は自由であるとか言ったら間違った理論を使っても許されるとか思ってるの?

ま、この手の質問に答えている人間を私は寡聞にして知らない。

彼らが理論を「使う」のは、大学で職を得たり、論文の数を稼ぐために一番効率が良いからだ。

しかし、あんたの生活や虚栄心のために書かれた出鱈目な本を買わされる人間の身にもなってくださいよ。

って、買わないけど。

でも授業で必須文献とかにするんでしょ?

学生さんカワウソ。

いつも彼らの本を立ち読みするたびに、オナニーを無理やり見せられている気分になるのは私だけなのだろうか?

それとも、みんな他人のオナニーを見たいのかね?

それは失礼しました。

しかし、身近なテーマを手軽に業績表へ掲載する論文に仕立てあげるために西洋の理論を「使う」なんてのは一時期の流行にすぎない。

そんな流行にいつまでもしがみついている彼らを、大学(というか、授業料払っている親御さんや納税者)はあと何十年も養わなければならないわけだ。

恐ろしいことだよな。