大学の人材劣化2

海外で一人厳しい環境を潜り抜けてきた研究者仲間たちと話していて、皆の意見が一致する土着日本人大学教員の特徴がある。

それは、彼らが研究者を研究の「内容」で判断しないことだ。

簡単にいえば、他人の研究内容には全く関心を示さないのだ。

例えば、理系学部の助教に採用された知人は、自分を採用し、しかも同じテーマを研究しているボス教授が彼の研究内容をほとんど理解していないことに驚いていた。

関心があるのは、研究テーマだったり、論文が掲載された雑誌の名前だったり、指導教授の名前だったり、本人の経歴や肩書きだったり色々だが、要するに研究「内容」以外の装飾物なのである。

海外の研究所や国際学会になんのコネもなく単独で乗り込めば、研究の「内容」や「質」だけが自分を認めさせる武器となるため、海外でキャリアを積めば積むほどこの違いは強烈に意識化されてしまう。

とにかく、皆が口をそろえて言うのは、日本で研究者をやっていた時には研究「内容」を尋ねられた記憶が全くないということだ。

それとは対照的に、自分の研究「内容」やその「素晴らしさ」を滔々と語り続ける人間は腐るほど存在する

これは、教育に関わっている(と勘違いしている)大学教員たちが抱えている根本的な問題のひとつを露わにしている(かも知れないよ〜)。

彼らは、相手の反応を窺いながらどの程度相手と共通の意識を持てるか探ったり、それを踏まえて自分が何を相手に提供できるか提示してみたり、というコミュニケーション能力が皆無である場合が非常に多い。ま、有り体にいえば、他者との関係構築力とか交渉力が欠如しているのだ。

この能力は、結局自分でじっくり時間をかけて場数を踏んで磨いていくしかない類の能力である。

例えば、抽象度の高い研究内容を誰にでも分かる言葉で説明したり、逆に別の研究者が行う未知の問題意識に基づいた抽象度の高い議論を理解する能力などもこれに含まれるだろう。

しかし、自分の意見や考え方を一方的に同業者や学生に知らしめることだけが研究や教育だと思い込んでいるため、それを理解しない人間と妥協点を探ることすらできない。

意見が合わなければ、怒るか馬鹿にするか無視。

こうした社会人として最初に身につけなければならない能力がほとんど必要とされていない環境、つまり似たような人間しか存在しない画一化された日本の大学における人文学領域という閉鎖・均質空間にいる限り、彼らは一生自分自身の幼児性・後進性に気づくこともないだろう。

研究活動ももはや世界中の研究者同士が行うコミュニケーション活動となっている。

しかし、日本の大学教員のほとんどは、異なる価値観を持つ他者からの批判や彼らとのガチンコの競争に晒されることなく純粋培養のまま今のポジションに就くことになる。

こうした広い意味での「コミュニケーション」活動を行う能力のない、一番教育が必要な人間が大学で教育活動を行っているのが現状なのだ。

もちろんこんなことをブログに書いても、というか面と向かって言ったところで、彼らは異なる価値基準に基づいた発言を理解する能力が欠如しているのだから時間の無駄なのだが。