ゴミの山に埋もれていく人文学
どの分野においてもその道を極めたいなら、基礎訓練が大切になる。
この命題に反対する人はさすがに少ないだろう。
しかし、人文学系の教員や自称研究者には、基礎訓練の重要性や基礎訓練とは何か?ということを良く分かっていない人間があまりにも多いように思う。
というか、基礎訓練もせずに安易な方向へ全速力で走っていくみたいな印象だ。
彼らの大半は単なる物知りか、お勉強の延長線上に「研究」を位置づけているひとたちだった。
「聞いて聞いて。ボクってこんなたくさん知ってますよ。ボクってこんな賢いんですよ。スゴクナイ?」
みたいな。
例えば、彼らが「論文」と称しているものを見て欲しい。
起承転結が考慮されている文章に出会った人はどれくらいいるだろうか?
ほとんどは、(原典の引用や二次文献の引用を除けば)思いつきの垂れ流しや不明快な論理、思い入れの吐露、あらかじめ決まっている牽強付会な結論で埋め尽くされている。
たとえば、さまざまな文学・言語理論や文化理論:ポスコロやカルスタ、フェミニズム、生成文法などはすべて先ず結論ありきで進歩がない文化サロン的なおしゃべりに過ぎないので相手をするだけ時間の無駄である。
原因→結果という簡単なロジックすら考慮されていない場合があまりにも多かった。要するに、文章が書けないのだ。読者に向って文章を書くという基礎訓練を受けていない、と言い換えても良いかも。
なぜそうなるのか?理由は簡単である。
(1)論文執筆者自身自分が書いていることの内容を理解できていないから。
「著者自身が理解できていないものについて書かれた文章を読まされても読者が理解できるわけがない。理解したことだけを書くことは、読者に対する最低限の礼儀だと思います。」
と、機会がある毎に言い続けたが、逆切れされたことはあっても納得されたことはない。
「書きながら迷っている姿に共感を覚える」と言い放つタコ教授もいた。
ま、これは例外だとは思うが、業界全体がアウトプットのスキル形成に対して恐ろしく無頓着だった。
(2)自分のカシコサをショウーアップすることが第一の目的であるため、一読して理解できない文章やお勉強したことをただ羅列してページ数を稼ぐような文章を書かないと自分の底の浅さがあまりにも簡単に露呈するから。
本来の目的であるはずの学術的な成果は全くないか、ほとんどないので、自分の言葉で要約すると2−3行で終わってしまい論文にならないのだ。
何も成果を出せないのは研究者としての能力がない証拠なのだから研究者を辞めれば良いと思うのだが、なかなか世の中理屈では動かないものである。
就職のためには論文の量が大事だという「正論」が幅を利かせ、誰も読まない論文という名のゴミが大量に発生してしまった。ゴミの中から宝を見つけ出せる人間すら絶滅してしまった。
オリジナルな学術的成果を生むとはどういうことなのか、ということを自分の背中で見せてこなかった前の世代の罪はあまりにも深い。