内田樹の研究室より

東に行ったり西に行ったり

4月30日、教授会研修会で、大学のミッションステートメントについて研修。途中でアドミッション・ポリシー分科会を抜け出して、新幹線で東京へ。

「アドミッション・ポリシー」というのは大学がどういう学生を入学させたいのか、その「理想」を語るという趣旨のものである。

そのような「理想とする学生像」を提示できない大学にはペナルティが与えられるであろうという教育行政からのご指導である。

ほとんどの大学が志願者確保に苦しんでいる実情を勘案すると、ずいぶんシニックな考え方のようにも思われる。
だが、ほんらいは「こういう教育がしたい」という建学の理想がまずあり、「そのような教育を受けたい」という学生はその後に、その理想に「感電」するようにして登場するという順序で学校教育は生成したのである。

だから、「まず理想を」というのは順序としては正しい。

順序としては正しいが、口ぶりがよろしくない。

「きちんとしたミッションステートメントを提示すべきだ」というのは一般論としては正しい。

だが、それを「きちんとしたミッションステートメントを提示せよ」と命令法で語るのは間違っている。

それは、行政が大学をある種の「幼児」として扱っているということだからである。

ミッションステートメントを明らかにせよと「上」から言われて感じるのは、入学試験や就職試験の面接で「で、キミはうちに入ったら、何をしたいわけ?ん。具体的に言ってみたまえ」と査定している面接官の前でぺらぺらと作文を読み上げている受験生のポジションにいる気分である。

教育機関を査定される側の「おどおどした」ポジションに置くことを文部行政は好む。

だが、朝令暮改の行政指導に右往左往し、「こんなもんでよろしいでしょうか?」と上目遣いをするような教育機関ばかりになったときに、日本の教育はその理想状態に達すると彼らが考えているとしたら、彼らの知性はかなり不調であると判じてよろしい。

人は幼児のように扱えば、幼児のままであり、成人のように扱えば、成人に変わる。

それは私の経験則である。

わが教育行政は「高等教育機関を幼児のように扱う」ことのリスクについて危機感が少ない。

その危機感の欠如が高等教育の土台を掘り崩している可能性について懸念する人は教育行政の要路に一人もおられぬのであろうか。