人文学の存在意義 by 財務省 主税局

藤城 眞 (財務省 主税局 税制第三課長/前財務省主計局主計官 (文部科学担当)x玉井克哉 (RIETIファカルティフェロー/東京大学先端科学技術研究センター教授)

藤城:
なお、人文科学は、ときには理科系、自然科学に比べると競争環境が低いケースがあるようです。そういうなかで、自分が好きだから研究するという世界がどこまで許されるのか…。ややこしいのは、お金の心配がない環境は、安定はしていますが、プレッシャーが少ない環境とも言えます。そこもよく考えなければならないかもしれません。

玉井:
なるほど。私も、正直いって自分のやっていることが仕事なのか趣味なのかわからない部分があります。ただ、自分にとっては趣味みたいなものでも、社会から見て役に立つ、その意味で説明のつく研究をしているつもりではあります。

藤城:
それと違う、鍵括弧つきの「趣味」というのは微妙ですね。

玉井:
そうですね。いわば純粋の趣味、単に好きだから趣味で研究をする、説明はできないという人は、少々待遇が低くてもしかないだろうということになるのでしょうか。

藤城:
公費との関係での議論ですね。あえて申せば、たとえば文学に、どこまで公共的な意味があるのかということは、容易なテーマではありません。文学の研究自体は、文章表現や読解力養成などの教育面にとどまらず、その背景にある思想や社会環境などを読み解くという研究面もあるでしょうし、文学に表れる人間の深層的な心情も含めて、文化や人間としての豊かさを維持し、高めるためによいことなのでしょう。それは、個々人の教養教育として重要ですが、公益性や外部経済的な意味で、どこまで公費でまかなうべきなのかと言えば、微妙なような気がします。
玉井:
難しいですね。

藤城:
そのような分野は、経費的には人件費が中心で、それほどコストはかかりません。ただ、例えば、ドイツ文学を卒業して職業人としてどうするのかを考えれば、そこで得たスキルは何なのか、あるいは、研究における波及性とは何なのか、少し考えてしまうところです。このことは、うまく申し上げるのが難しいところではありますが。

玉井:
ただ、ドイツを理解するということは、日本国として必要なので、そのために必要な研究もあります。また、必要な人材というのもいると思います。

藤城:
そうですね。いわゆる地域研究と、その一要素の文学とは、また少し違ったものであるということでしょう。

玉井:
そうですね。そのことは、非常に大事なことだと思います。つまり、たとえ一般には虚学といわれるような分野であっても、自らが好きだから行うというのではなくて、こういう理由があるから国費を投入する必要があるのだと、説明責任がいるということになるのでしょう。

多くの大学人の考え方としては、そのような考え方は、かなり違った発想だと思います。研究者というのは、好きなことをやればいい、研究動機を説明する必要はないというような考えを持っていると思います。しかし、自身は、このためにこういう研究をしているのだ、これまでしてきたのだということを説明する必要が出てきた。そして、説明するという以上は、一生をかけて死ぬまでに説明するということはありえない。それは、毎年なのか、中期計画6年なのかは別にして、自分自身の人件費を含めて、国費を投入していただく以上、何かその理由が必要になる、それを説明する必要があるということですね。

藤城:
そうですね。もちろん、自身が好きだから研究するということを否定しているわけではありません。それは構わないが、そのために公費投入が必要という話になれば、説明が必要ということです。例えば、国としても、お金を投じるからには、何がしかの理由が必要です。ただし、確率論のような問題があり、全く意味のないように見えるものでも、実は後で大化けするものもあるかもしれません。その部分は、説明しきらないのかもしれませんが、ぎりぎり100点ではなくても、このことを研究していれば、このような成果があるということを、ある程度説明してもらいたいのです。

これは、文科省を担当している財務省役人の意見であると同時に、人文学系大学教員に対するごく一般の日本人が行う評価でもあると思う。

しかし、玉井さんの

「私も、正直いって自分のやっていることが仕事なのか趣味なのかわからない部分があります。ただ、自分にとっては趣味みたいなものでも、社会から見て役に立つ、その意味で説明のつく研究をしているつもりではあります。」 

とか

「研究者というのは、好きなことをやればいい、研究動機を説明する必要はないというような考えを持っていると思います。しかし、自身は、このためにこういう研究をしているのだ、これまでしてきたのだということを説明する必要が出てきた。」

という発言は笑えますな。

こんないい年した東大のおっさんが「自分は何も考えてませんでした。自分は無責任に好きなことだけやってました。もうそんなこと許されないんですね。アハハ。」なんて言ってたら、いくら若い奴が責任感を持って人文学を立て直そうとしていても思いっきり脱力するんじゃないの?

って、そんな若い研究者はほとんどいないけどね。

要するに、今まではほとんど誰にも相手にされてなかったから見逃されていただけで、別に日本の人文学自体に価値があるから君たちが存在していたわけではないわけ。

その証拠が、この主税局の見解だ。

大学だろうが会社だろうが、組織が生き残るために不要なコストを削るのは当たり前の話だ。

その不要セクターが、人文学と人文学系大学教員だったというだけの話である。

文化の継承とか人文学的教養の価値とか君たちが言い続けている寝言は、結局君たちの存在意義を証明することには全くならなかったということだね。

実際、人文学系大学教員はお上に飼いならされた家畜にすぎない。

http://blog.tatsuru.com/2008/10/26_1313.php

ってな感じで、会議と書類で苦しめられても手も足も出ない。

お上に頼らずに自分たちで資金を集めたり、外の世界へ飛び出すことができる人間など皆無だ。

役人のコントロールに右往左往して手足もがれてるのは非常にお気の毒だが、今まで好き勝手やりたい放題してきたんだから自業自得である。

役人が馬鹿だからとかいつまでも子供みたいに人のせいにするんじゃなくて、自己責任ということでヨロシク!