PHASE 1: 意識の改革〜「だまらん」より

http://pocus.jp/11-2005/112305-save-humanities.html

都立大学の教員が、人文学教員が削減の対象となる理由を述べている。

(1)大学経営
経営の効率化のために人文系教員は一番切りやすいから。

(2)人文学系教員
ヒマな彼らの中には社会に対して常に批判的な目を持つ者が存在し、大学改革を引っ張っていこうとする学長に対して邪魔をするから。

(3)現代社
現代日本社会が限りなく「実用学問」を求めているから。

あちこちに目配りしながらバランスをとりつつ意見を述べる.

これは、人文系大学教員たちがメディアで発言する際の常とう手段である。

しかし、この類の良い子ちゃん意見を言ったところで、何も生まれないし何も変わらないだろう。

誰が何をすべきで、何をすべきではないか。

何が変われば現状を打破できるのか。

打破できないならば、なにをすべきなのか。

さっぱりわからない。

結論部分には、彼の本音らしきことがこう書かれている。

人文系学問が遠からず徐々に死滅していく,これが日本の将来の姿だと思う.特定分野の研究者が日本から消えていく,これを黙って見ていていいはずがない.人文科学は,「人間」を研究する分野であり,「人間とは何か?」,「人間とはいかにあるべきか?」,「人間社会はどうあるべきか?」というような根本的な問題を扱う.「社会に出てすぐに役立つ知識ではないから」というレッテルを人文科学に貼り,人文科学を冷遇しつづければ,やがて「手軽に手に入るものしか関心のない学生」,「社会なんてどうでもよい自己中心的な学生」,「簡単に扇動されてしまう学生」,「なんの理由も問わない学生」がますます多く大学から巣立っていくことになるだろう.

ここまで評価されるなら、人文”科学”さんも本望だろう。

しかし、人文学に関わりのない人間には、「我々は自分自身を何も変えるつもりはないけど、非常に価値のある人間なのだから丁重に扱われて当然である」と言っているようにしか思えないのではないか?

そもそも本当に人文系学問は彼が言うほど根本的な問題を扱う特権的な学問分野でありえるのだろうか?

人文系学問ができることは限られている。

人文学一般の基礎は文献学であり、これは活字情報や図像表現などを扱う。心理学や言語学ならそれに加えてそれぞれの分野特有の方法論に基づいた統計データなどを扱う。

これ以上でもこれ以下でもない。

これらは人間が発する情報の一分野にすぎない。

他の学問に優先して根源的問いに回答を与えることもできないし、ましてや諸学の礎ではありえない。

哲学は諸学の礎というが、それはメタ的な視点を専門的に学問的業績として活字化できる分野が哲学に限られていたという面が大きい。

哲学と呼ばれうるものはどの分野にも存在することは確かだ。

しかし、現在はHPやブログを始め、論文以外にもさまざまな情報発信装置があるので、どの分野に属する人間でもメタ的視点や各分野を支える哲学を自由に発信できる。

そのため、哲学という学問分野が以前のように特権的な地位を占めることは難しい。

筆者は言語学者のようだが、そもそも現在の言語学は本当に「人間とは何か?」という根本的な問いに対してそれほど貢献しているのだろうか?

ましてや,言語学が「人間とはいかにあるべきか?」,「人間社会はどうあるべきか?」という倫理的な問いに答えているなどと主張することはいくらなんでも行きすぎではないだろうか?

良い例が、チョムスキーだ。

彼がポルポト派に対して何と言っているかを鑑みれば、言語学者は「人間とはいかにあるべきか?」という倫理的な問いを特権的に回答する能力がないことは明らかなのではないか?

百歩譲って仮に人文学が根本的問題に何かしら貢献しているにしても、人文学が貢献している程度には、あるいはそれ以上に他の学問分野が貢献しているのではないだろうか?

彼が「実学」と括っている分野においても、「人間とは何か?」という問いと無関係ではありえないし、現場でプロとして仕事を突き詰めていけば最終的にはそういう視点を持って仕事せざるを得なくなる場合が多い。

いや、学問分野だけではなく、ビジネスの現場や日々の日常生活や人間関係、家族との結びつきからでも根源的な問いと取り組まざるを得ない。

自身が属している業界を過大評価する気持ちは分かるが、こういった身びいきな意見が現在の状況でどの程度妥当性があるか、はたまた他人の営みに対する無知の結果ではないかなど、少しは自問した方が良いのではないだろうか?

ましてや

人文学を冷遇すれば「手軽に手に入るものしか関心のない学生」,「社会なんてどうでもよい自己中心的な学生」,「簡単に扇動されてしまう学生」,「なんの理由も問わない学生」がますます多く大学から巣立っていくことになるだろう.

などと決めつけてしまえる根拠はどこに存在しているのか?

人文学=学生が「手軽に手に入らないものに関心を払い、自己中心的でなくなり、簡単に先導されない、あらゆることに理由を問う」ようになる万能薬という意見は非常に短絡的で、両者の間には何の因果関係もない。

私自身文理問わず研究者の知り合いがいる。

個人的な印象にすぎないが、理系の方が圧倒的に幼稚で自己中心的な人間が多いとはとても思えない。

そもそも人文学系大学教員は、研究テーマや研究レベルの設定、論文執筆のルールに至るまで、あらゆることを自分で勝手に決定できるうえに、ピアレビューなどないも同然であるために全能感に満ち溢れた自己中心的な人間が非常に多いではないか。

なぜ筆者は上記のようなトンデモ意見を臆面もなく主張できるのだろうか?

人文学に対して過大なまでの価値を見出すこうした意識こそが、人文学の崩壊に寄与してはいないのだろうか?

こうした特権意識を捨てることから始めない限り、誰からも共感や協力を得ることはできないばかりか、それこそ人文学は消滅するしかない、と思うのは私だけなのだろうか?