誤訳論争?

なんか相変わらず誤訳論争が起きているらしい。

生まれてこの方人生の問題について考え続けている東大のセンセ野沢歓さんの『赤と黒』

亀山郁夫センセの『カラマーゾフの兄弟』

何をいまさら。。。と思うのは、もしかして私だけ?

翻訳なんて、間違いだらけなのは当たり前じゃないの?

考えてもみてくださいよ。

翻訳しているのは、日本の大学にお勤めの語学教員ですよ?

世界的に見れば、彼らは三流や四流では留まらない破壊的な語学力をお持ちなわけです。

そりゃ、ロシア専門の商社マンの方がロシア語能力が高いなんて当たり前の話じゃないですか。

大学の語学教員なんて語学力を高める何の切迫感も必然性もないわけですよ。

言葉なんて、自身や家族の将来を背負うぐらいの切迫感や必然性がなければ、ただの飾りにすぎないのだ。

そんな人たちに何を期待してるんですか????

意味が分からん。

(追記)

翻訳を利用して「研究」していると自称する人たちが日本の知を征服してしまってからは、もう日本語の本を買うことを止めてしまった。

とりわけ評論家ゴッコしている若い奴ら(社会学とか情報学とかに多いらしい)は翻訳を斜め読みして偉そうなことを言っているが、もう見ているだけで吐き気がする。

なめるのもいい加減にして欲しいものだ。

日本の翻訳文化のダメさ加減に関しては、中島義道さんによる岩波文庫の篠田英雄訳カント『純粋理性批判』の誤訳へのコメントと同意見なのだが、一度も賛同を得たことがない。

色々批判を受けてはいながらも浅田彰氏などは最低3〜4ヶ国語ぐらいは原文で読んでいた様な気がするが、いつからメディアで活躍するには翻訳を使うだけでオッケーということになってしまったのか。

 わが国においても、カントについて書いている多くの人が、カントの原典をしっかり読んでいないのには驚く。誤訳だらけの翻訳(とくに岩波文庫の篠田英雄訳『純粋理性批判』には平均一ページに十ヵ所くらい誤訳がある)を拾い読みしているだけで、あれこれ論じないでほしい。例えば、吉本隆明柄谷行人竹田青嗣小浜逸郎など文芸評論家であって、哲学についても器用に語る一群の人々がいるが、他のことは知らないけれど、彼らがカントについて書いていることは、ほぼ間違いである。というより、伝来の共通の誤解に基づいた枠内に留まって議論しているのだから怠惰であり、当然カントが格闘した問題から程よくピントが外れている。
中島義道『観念的生活』文藝春秋 2007年11月 p.28)

平岡公彦のボードレール翻訳日記』より引用