ブランディングに無自覚な業界はどうなるか?

ゼロからプロジェクトを立ち上げて、製品を企画・立案し、市場調査・マーケティングをした後、その新製品をより効果的にマーケットへ浸透させるためには何をすべきだろうか?

一般のビジネスでは当たり前のこの問いが、実は研究者にとっても重要だと思う。

たとえば、ゼロから物事を考えて、その研究を論文・書籍やその他メディアに発表し、そのアイデアを世間へ広めていく場合に何をすべきだろうか?

必ずその製品やアイデアに「価値づけ」を行うでしょ?

価値がないと誰も振り向きもしないわけだから。

企業なら、製品とは別に会社のイメージにも価値づけをしていきますね。

ま、この価値づけの作業はブランディングとか呼ばれて、一般には胡散臭がられているけど、中長期的に業界そのものを存続させるにはものすごく重要な作業だと思う。

明治学院大学みたいに佐藤可士和に任せるとか、そういう話以前に自分たちでできることは山のようにある。(というか、あれって明治学院大学のブランド向上に役立ってるんでしょうかね?)

人文学教員が良くやる自分自身への価値づけは、「ルーマンによれば」とか「デリダによれば」とか海外のビッグネームを剽窃スレスレで(というか、うまく剽窃して)やたらに論文の立論に利用するとか。

あと、一生懸命ルーマンとかデリダを訳して、ルーマンあるいはデリダといえばXXさんとか呼ばれて嬉しがっているとかね。

日本というガラパゴス諸島だからそんなお手軽商売が通用しているのかは知らないけど、そんな輩ばかりですよね、日本は。

実際この価値づけの手法は、楽で効率的ですよ。だって、誰かに批判されても「お前はルーマンを批判するのか」とか「お前はデリダを批判するのか」と恫喝できるからね(笑)だから猫も杓子もビッグネーム信者なんだけどさ。

ところが、大学の人文学教員は自分のことしか考えることのできないオサナイ方々なので、もうすこし大枠での価値づけを、つまり日本社会での「人文学研究者」そのものの価値づけを全くしてこなかった。

そのことに関して、以下に私見を述べたい。

日本で学会や研究会、勉強会と呼ばれるものに参加していて一番感じていたのは、「プロとしてやる以上、このまま手弁当で研究者を続けていてはダメだな」ということだった。

あの頃はすでに大変生意気にも人事権を持っている世代の大学教員を侮蔑(!)していたし、すでに若い人文学系研究者を国がもはや守らないことを気付いていたので、いかに人文研究者にお金を生み出す価値づけを行うかということばかり考えていた。

大学という原始共産主義の世界では価値があっても、資本主義の世界では人文学教員など何の価値もないので、国が切ると言えばそのまま社会から切られることになるだろうという予感があったためなんだけど。

(実際、財務省からも三行半を突き付けられているわけだから、現実にそうなりつつある。)

学会や研究会、勉強会のように手弁当で(無料で、というか持ち出しで)広く知識を普及・交換するという理念自体は非常に素晴らしいとは思うけど、と同時にそれは長期的に見れば資本主義の社会における人文学系大学教員の価値を毀損する行為なんだろうな、と強く思う。

学会や研究会、勉強会は、現在単なる院生のお披露目の場や人事情報交換の場、あるいは旧交を温める場であるにすぎず、なんら生産的な場ではない。そこから発行される学会誌は、自費もしくは補助金がないと立ち行かない同人誌にすぎず、仲間内でしか(ですら)読まれない。

学会や研究会、勉強会が、組織としてスポンサーを見つけてきて書籍や雑誌として刊行したり、さらにそれを英語にして広く流通する形にしたりして(これらが必ずしもベストな方法だとは思わないけど)、自分たちが発信する情報に逐次価値づけをしていくべきだった。

さもないと、今のように国や大学の保護がない若い人文学研究者の価値が限りなくゼロになってしまうからだ。

実際、大学や国に保護されず生活できるだけのお金を人文系大学教員に対して払う価値を見出す人はほとんどいないだろう。(猫々先生のように私塾をやれる人文系大学教員が日本に一体何人いるだろうか?)

非常勤講師は学生にすら「ワーキングプア」と馬鹿にされ、専任教員は「税金泥棒」とか揶揄される最低な境遇を少しでも改善すべく、また(高田里恵子さんの言葉を借りれば)人文系大学教員を「自分たちから遠い存在とは思わず、自分たちと同じなのに妙にいばっている者として憎悪している」人たちに改心を促すべく、人文系大学教員の価値づけをあらゆる手段を講じて行うべきだった。

だが、もう手遅れだと思う。

皆様がお得意のお勉強をして、少し自分の頭を使って考えれば、こうした悲惨な結末を予測できないわけはなかったと思うんだけど。。。